ところざわまつりの当日。お天気は幸いにして崩れもせずにお祭り日和でした。
自分は一応地元の町内会には所属してますが、古い街の中の新参者な上に地元の小中学校絡みでの付き合いもないので、ほとんど一般参加者というか観覧者レベルです。
土日も仕事で動けないことも積極的に絡めない原因の一つですが、もう少し早い段階で溶け込んでおけばまた違ってたかもしれませんね。
昼過ぎくらいの山車の曳き廻しの統一行動を見てきました。
山車は各町毎にあって、毎年10台前後の曳き廻しが行われます。中にはかなり立派な山車もあるので、山車の見比べをするのもなかなかおもしろいです。
市の有形文化財の有楽町の山車について…
有楽町山車は、明治時代初めに砂川村七番(現在の立川市)が宇都宮の彫刻師、後藤徳蔵に製作を依頼したもので、完成までに十数年の歳月を要したと言われて います。その後、大正時代中頃の農村不況で山車を維持していくことが困難となって売りに出され、浦町(現在の有楽町)の深井伝右衛門が当時1,000円で 買い取り、浦町に寄贈したと伝えられています。
台は欅材、車輪は樫材、上部は欅材の総彫で二重勾欄を有し、高さ4.45メートル、幅3.45メートル、奥行4.65メートルあります。前室は柱のみの 吹き抜け構造、後室は障子等で部屋が区切られています。前室が踊りを行う場、後室は準備を行う楽屋という典型的な踊り屋台山車で、製作者後藤徳蔵の銘が刻 まれています。また、破風に施された竜宮の透かし彫りや、左右の柱の上り龍や下り龍、後室側面の透かし彫りなど、彫り物が秀作です。屋根の中央やや後室寄 りには凹みが見られ、当初はここに人形を据えていたと思われます。製作以来、特に改造もなく、当時の形式を今もよく伝えています。
(引用元:所沢市ホームページ・文化財のページより)
大正時代の1000円ってどれくらいだったんだろうって思って、手元の資料を調べてみたら、大正八年頃の工場職長の収入が給料と夜業代合計で39円33銭、大卒の初任給は40円~50円だったというから、庶民の年収が300円~800円位ってところでしょうか?なんとなく、今で言うと1000万以上は確実でしょうね。
彫刻はほんとに圧巻です。これは竜宮の透かし彫りってことは、下にいるのは亀に乗った浦島太郎で、うえにいるのは乙姫様でしょうか。波の造形も素晴らしいです!
有楽町の山車は今年は曳き廻しはなく、固定してお囃子で盛り立てています。
他の町の山車も趣向を凝らしています。とても勇壮な題材の彫刻が多く見られます。
山車の統一行動も圧巻。
普段は場所によっては閑散としたシャッター街が今日だけは人でごった返して賑やかです。
所沢の街は「銀座通り」と呼ばれていますが、初めて街を通った時に、その異常に寂れた光景に驚きました。その一方で古い町並みを壊して無秩序なマンションが乱立して、決して美しくはありません。
市の補助を受けてある程度統一感を出すように作られたマンションと、制限を受けるのが嫌で補助を受けずに統一感を無視して建てられたマンションが乱立する街並はとてもアンバランスに見えて滑稽です。
サンバやよさこいもありましたが、犬散歩してなかったので帰宅して望利音連れて近くの住宅公園周辺を歩きます。結構暗くなってしまいました。
望利音はまたもやカメラ目線をくれませんw。動くものが気になる望利音。
琥珀丸は相変わらずいつもどおり。